盈虚

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杞憂と尾崎リノ(2020年10月20日)

ものを食いきれない 昔と言うかつい数年前、下手したら十数カ月前には余裕で好んで食べていたものがめちゃめちゃ濃い味に感じる で、苦労して食べ終わるのにお腹の容量的にはまだまだで、だからまた何か食べたくなる やばいか…?

なんか昨日と今日は何かに過剰に緊張したり悩んだりして杞憂に終わるみたいなことの連続で、すごい疲れた 昔からずっと、心配しすぎてもしすぎることはないみたいなやり方をとっていて、最悪を想定してはそれ以下の結果になったことに安心し続けている 「怒られるかも」という状況になったとき、怒られるのが怖すぎて嫌すぎてなるべくいちばん最悪の怒られ方をシミュレートして、もうそうなることが決まったかのように思い込んで思いっきり落ち込んで怯えておけば、当日どんな結果になっても、そのときよりは怖い思いをしないですむ そのかわり心の疲労がすごい 何やってるんですか? でも怒られたり失敗してパニックになったり、絶対なりたくない それらしい言い訳とか傷ついてないふりとかその場しのぎとか、めっちゃ上手いと思う

寝たら忘れるとか、嫌な思い出を良い思い出で塗り替えるとかができない そのときは確かに楽だけど、その時以外はずっとそのことをたまに思い出しては悩んでいる 誰かに聞いてもらったりこういうところに書いたりして緩和されるものでもない 悩み慣れている・・・ どんなに気持ちよくなってても不安とか後悔とかはその底に付きまとうし、終わったことは終わったことだけど、それはそれとして忘れるわけにはいかない やらかしたことを忘れたら黒歴史から進めないし…

眉毛を抜いてしまう 人生で眉毛を抜いたことなんか一回もなかったのに 痛い…

気を病みながら「気を病む奴はバカ」と思っているので、病みに寄り添うような歌よりも底抜けに元気な歌の方に救われる

「狙ってない感」がエモを生むのでは? たとえば写真だと、計算されたスタジオで撮られた写真ではなく、端っこにいらない情報が写り込んでいたり、強い光で色がすこし白く飛んでいたり、ぶれていたり、水平じゃなかったり、そういうあたかもその一瞬に何気なく撮ったようなものが「味がある」として好まれるのかもしれない そうして撮り手はその何気なさを、「狙ってなさ」を作り出すために計算されたスタジオをつくりあげる そのスタジオがスタジオであるとばれたら、興ざめ、ということになるのかもしれない

youtu.be

今日はこれを聴いているわよ 一回挙げたかもしれないな…まあいいか

尾崎リノの描く、閉じられたふたりの世界が好きで、江國香織の熱帯夜を思わせる 作中のフレーズを借りるなら彼女らは「世界の外側」にでていて、彼女ら以外の全員を胸の中で皆殺しにしてしまっている でも熱帯夜と違うのは、終わりが描かれているところで、部屋と地球儀ではふたりきりだった世界に終わりが来る だからファンタジックでも夢のようでもなく、地に足がついていて、だから生々しくて、前半のうわついた多幸感やたしかにあった愛情が、ぽっかり浮いて見える 砂の城が波にのまれるようなむなしさと、それでも「なにもなかった」のではなく確かにそこにはただの砂の塊ではない何かがあって、その何かの記憶が、ふたりのなかで何かの作用を起こして燃えつづけている それがすごく好き